先日、NHK BS で、「発見!対決!春の武蔵野 鉄道旅|にっぽん再発見|ムサシの国の物語|NHK」(2013年5月22日)という埼玉の旅番組をやっていました。その中で久喜に500 m を超える長大な参道(鎮守の森)の神社があると紹介されていたのですが、地図を見たら家から自転車ですぐ近くのところでした。
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そんな面白そうな場所を知らなかったとは……と行ってみたら、ここの林はよく通る県道(埼玉県道312号線)から頻繁に目に入っていました。道の曲がりや橋のせいで迷子になるので、あまり足を踏み入れてこなかった(または道が覚えられない)ところでした。この近辺は地図を見ても分かる通り、元荒川(江戸時代の荒川付け替え前の旧流)やその支流・水路が多数ある低湿地で、太くて真っ直ぐな道から見渡すかぎり四角い田んぼ、ところどころに集落といった風情の地域です。合併前は菖蒲町でしたから、昔昔、菖蒲の花がきれいだったんでしょう。
当日(2013/6/1)は小林小学校の方から来て森下公民館前交差点(グランド、浄水場)を曲がったので、神社の参道ではなく裏のほうから入ることになりました。上栢間の交差点から県道77号のほうが順当でしょう。あるいは桶川からなら県道12号を下栢間交差点で県道77号に左折です。
写真の由緒を文字に起こすと、
神明神社
所在地 南埼玉郡菖蒲町大字上栢間
神明神社の創立は、古くは天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神であったが、現在は天照皇大神、豊宇気毘売神の二神を祭っており、伊勢神宮の分霊のため、近年まで「神明両社」と呼んでいた。
江戸時代、徳川家譜代の家臣内藤四郎左衛門正成が、栢間および新堀、三箇、戸ヶ崎、小林の旧五か村を領してから、五か村の総鎮守として以来、歴代の領主が厚く崇敬した。
明治六年に村社となり、昭和十六年郷社に昇格し「神明神社」と改称、さらに昭和二十年に県社となった。
本殿は、天保八年(一八三五)に建てられたもので、昭和三十八年に屋根を改修している。
毎年一月十五日には、火防除と呼ばれる「鎮花祭」と、その火で粥を煮てその年の作物の豊凶を占う「筒粥」の神事が行われる。筒粥の神事は、大鍋に米三合水六升を入れ、葦の節のないところを長さ七寸位に切り、十八本を簀状にし麻で結ぶ。一本一本の簀に米粒が入る数によって占い、多くの米粒がはいったものほど豊作とされている。
昭和五十八年三月
埼玉県
手水舎の屋根の木組みや彫刻が豪華でした。この日、石に水は入っていませんでした。水といえば、左手の舞台の手前に池か泉の痕跡のようなくぼみがありました。地図を拡大すると水がたたえられていたようです。季節的なものか、湿地帯を土地改良した結果か、なにがあったんでしょう。右手の方にはちょっと休憩できるような木のテーブルとベンチがありました。
後ろには参道が木々のトンネルとなって石畳が続いています。
写真を文字に起こすと、
埼玉県指定 天然記念物 神明神社の社叢
埼玉県南埼玉郡菖蒲町大字上栢間三三六六他
昭和五十二年三月二十九日指定神明神社は、古くから住民の信仰を集めてきた由緒ある社である。
社叢は、長さが五五〇メートルをこす参道林と境内林とから成り、面積は約一・七四ヘクタールに及ぶ。参道の両側には、アカマツ・クロマツの並木が続いている。境内林は、高木にアカシデが多く、部分的にスギが点在する。これより低い木としては、ヒサカキ・シロダモ・エゴノキ・アズマネザサ等が多い。草木類では、チジミザサ・ジャノヒゲ等が比較的多い。この社叢は、現在はアカシデを主体とした不安定な状態を示しているが、潜在的にはヒサカキ・サカキを主体とするシラカシ群を、自然植生とみることができる。
境内にあるアカマツの大木は、樹状が笠状を呈するので、「笠松」として知られている。
埼玉県東部低地には、潜在自然植生をよく示す広域的な林は少なく、貴重である。
昭和五十四年十一月三日
埼玉県教育委員会
菖蒲町教育委員会
参道を外から眺めると、畑の中に緑の帯が続いています。たくさんの川や用水路の隙間のような地域ですが、このへんは若干高い台地になっているようです。
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そのまま帰ろうとして道に迷っていたら、すぐ近くに大きな前方後円墳がありました。県道77号線沿いです。航空写真だと形がわかります。ふつうの地図では薬師如来(卍)になっています。神明神社から参道をまっすぐ延長した先に天王山塚古墳があります。
天王山塚
所在地 南埼玉郡菖蒲町大字栢間
天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、全長約一〇七メートル、前方部の高さ約九メートル、後円部の高さ約一〇メートル、前方部幅約六二メートル、後円部径約五五メートルあり、主軸はほぼ東西をさす。
墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は二〇メートルほどである。主体部は不明であるが、墳形の形態から古墳時代後期(六世紀中頃)のものである。
栢間古墳群は九基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の一基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
昭和五十八年三月
菖蒲町教育委員会
栢間古墳群の九基がどこなのか、航空写真では判然としません。古墳の南西の角、斜めの丁字路に説明書きがあって登れるようになっています。古墳の上をそのまま進むとお堂があって、地図にある卍薬師如来です。その向こうが山になっていて、江戸時代に古墳の上に富士が築かれたそうです。(こういったことは、帰ってきてから検索してわかったことです)
お堂の前から階段があって、倉庫の前に下りられます。写真左手は更地にしたばかりのようで、以前は倉庫が立っていたそうです。
県道77号から古墳の姿が見えるチャンスかもしれません。建物があると単なる林にしか見えないと思われます。
図書館にあった
- 大塚初重・小林三郎・熊野正也 編、「日本古墳大辞典」、平成元年 初版、平成17年 6版、東京堂出版
によると、
栢間古墳群 かやまこふんぐん
埼玉県南埼玉郡菖蒲町下栢間と上栢間に,前方後円墳2基,円墳5基が現存している。元荒川の左岸で,蓮田台地の北端部にある。前方後円墳天王山塚古墳は全長107m,後円部径55m,前方部幅62m,夫婦塚古墳は全長45m,後円部径23m,前方部幅21mである。天王山塚古墳は県指定史跡。
[文献] 塩野博「天王山塚古墳について」埼玉考古16、1977
(引用文の下に天王山塚古墳の地形図記載)
文献を見てみたいものです。(2013/6/19 追記: 塩野博「天王山塚古墳について」を閲覧できました。☞ 神明神社と天王山塚古墳 (2) )
ところで、栢間という地名ですが、いつも交差点で読みがわからなくてローマ字を解読していたような気がします。栢という字を漢和辞典で調べると、柏餅の柏(カシワ)の異体字とあります。カシワなのにカヤとはこれいかに? 栢 カヤ – Google 検索 したら、和泉晃一氏のこんなページがありました。
いろいろなことが書いてあるのですが、
- 漢字本来の意味として柏は松に対比してヒノキのような針葉樹を指す漢字である。松柏とは針葉樹のこと。
- 日本では古い時代に松に対比して当時の植生から、柏が広葉樹のカシワに割り当てられてしまった。
- 針葉樹のカヤ(日本産)には榧(中国産シナガヤ)の字が当てられている。
- 柏と栢は同字だが、柏はカシワと訓み、栢はカヤ(カヘ)と訓むように使い分けられてきた。
- ……(その他様々な歴史的記録と推測)
私の手持ちの辞典類でも根気よく探すとカエ、カヘ、カヤの栢や柏が出てくるので、栢でカヤと読むのは自然なことのようです。
カヤといえば、木ではなく草にもカヤ、つまり、茅、萱があります。茅葺屋根のカヤです。
茅(かや。「萱」とも書く)は、古くから屋根材や飼肥料などに利用されてきた草本の有用植物の総称。
「茅」と呼ばれるのは、細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物で、チガヤ、スゲ、ススキなどがその主要なものである。
かつては栢間沼や弁天沼に残る沼(☞ 栢間赤堀川)や屈曲の激しい元荒川もあったことですし、対岸の桶川市側には篠津という地名があって篠(小さな竹)の生えた船着場が(赤堀川に?)あったそうです。菖蒲町栢間のカヤマという読みからは、ススキやイネ科の尖った草(茅)が一面に生えている間に小高い乾いた土地がありそうな景色が想起されていました。しかし、栢(カヤ)の木だとすると尖った葉っぱの木々が茂っていそうに思われてきます。古墳群や神社の林が目立っていたことでしょう。読みに合わせて漢字を入れ替えることはよくあるので、栢間と漢字を当てた古人がどんな意味を込めたのかはわかりません。ついつい妄想が広がってしまいます。
(2013/6/3)